「犯罪的ロマンス」番外ショート
〜イブイブの夜にあなたと〜



「……ねえ、どうしてもダメなの?」
 高槻が運転するコルベットのサイドシートで、歩は横目で男をちらりと盗み見て、甘えた声を出す。
「仕事だから無理だ。何度も同じことを訊くな」
 くわえ煙草で冷たく答える高槻に、歩は不満の色を隠せない。ちえっ、と唇を尖らせ、拗ねた顔でシートにずるずると沈みこむ。
 明日から冬休み。そして明日はクリスマスイブだ。
 終業式が終わり教室に戻ろうとしたら、タイミングよく高槻から歩の携帯に電話が入った。学校の正門前にいるので、家まで車で送ってやる、という。
 珍しいこともあるものだと、歩は圭太との約束を放りだし大喜びで正門へとダッシュした。だがしかし、車に乗りこむと早々、高槻は渋い顔で切り出した。
 聖夜には、ふたりだけでクリスマパーティーを開く予定だったのだけれど、急きょ泊まりの出張が入ってしまい、会えなくなってしまったのだ。
 歩はずっと前から、クリスマスイブをとても楽しみにしていた。それはその日が、歩にとってまた違った意味で特別な日だったからだ。
 高槻とつき合い始めて、ちょうど一年。
 援交から始まった体だけの関係だったけれど、去年のクリスマスイブに初めて、ふたりは心を通じ合わせ、晴れて恋人同士になった。
 だから明日は、単純にクリスマスイブというだけではなく、歩にとっては一年目の記念日。
 それなのに、大好きな人に会えないなんて。本当はパーティーなんてどうでもいい。ただ、高槻さえ自分のそばにいてくれれば――。
 歩はドアの窓ガラス越しに、流れる景色をぼんやり眺めながら、独り言のように口にする。
「よくさ、テレビドラマの台詞とかであるよね」
「なにがだ」
「“仕事と私、どっちが大切なの ”って。なんか、今、すごくそんな気分だよ、俺」
 遠回しに責め立てられても、高槻はフロントガラスを睨みつけたままなにも答えなかった。しばらくして忌々しそうに舌打つと、灰皿で煙草をねじ消す。
「俺だって、好きでドタキャンしたいわけじゃねえ」
「でもさ……、結局は仕事が大事なんだろ」
 安っぽい台詞を、まさか自分が口にする日がくるとは予想もしていなかったが、つい愚痴ってしまう。
「だったら、おまえが神様に直談判してくれ。どうして働く男には、クリスマスや正月や盆が巡ってこないのか、ってな」
 苛ついた口ぶりに、鼓動がトクンと小さく跳ねた。
 駄々をこねたせいで、とうとう怒らせてしまったのだろうか、といささか不安になってくる。
「ったく、あの社長、芸者遊びも大概にしやがれっ」
 どうやら高槻の怒りの矛先は、京都出張を余儀なくされた、取引先の相手に向けられているようだ。
 もともと口が悪い高槻ではあるが、ぶつぶつと恨み言を並べる不機嫌な姿を見ると、残念がっているのは自分だけではなかったんだ、ということを悟った。 
 高槻とて、好きで約束を反故にしているわけではない。幼い恋人とふたりきりで祝う聖夜を、彼なりに楽しみにはしていたのだろう。
 しかし大人には大人の事情がある。いくら一回りも年が離れていて、甘やかし放題だとしても、歩の希望が聞き入れられない状況だってあるに違いない。
 歩は今になって、子供じみた我がままで高槻を困らせてしまったことを深く反省した。
「……ごめん、高槻さん」
 頭を垂れてしおらしく謝ると、高槻はフッと小さく鼻を鳴らした。目尻に柔和なしわが刻まれている。
「バカ野郎。おまえが謝るな。悪いのは俺だろうが」
 項垂れたその頭を、男の大きな手のひらが、くしゃくしゃとかき荒らす。その手つきがとても優しくて、歩は思わず泣きそうになってしまった。
「クリスマスは無理だが、今日は仕事をスタッフに任せてきたからな。明日の朝までは一緒にいられるぞ」
「え?」
 弾けるように顔を上げて、隣の男を見やる。ハンドルを握った高槻は、意味ありげな視線を流してきた。
「それって……」
「一日早いが、まあイブイブでも、やらないよりはマシだろう。今夜は俺の家に泊まっていけ。パーティーだ」
「ホントにっ!? やった!」
 歓喜の叫びをあげて抱きつこうとした、すんでのところで思いとどまる。嬉しさのあまり、運転中だったことを忘れてしまっていた。
「なんだ、だったら早くそう言ってくれればいいのに」
 ニヒヒと、笑みが口元から零れる。
「おまえは本当に現金なヤツだな」
「だって、マジで嬉しいもん。最近、まともに会ってなかったし、泊まりだって……」
 うっすら頬を染めて、語尾を濁す。
 高槻の家に泊まるということは、もちろんエッチもありということ。いくら久しぶりとはいえ、露骨に喜ぶのもどうかと恥ずかしくなってきた。
「なに、ひとりで赤くなってんだ。早く俺に抱かれたくて、うずうずしてんじゃねえだろうな」
「……なっ」
 歯に衣を着せぬ卑猥な言葉にも慣れたはずなのに、歩は絶句した。高槻は、そんな反応を楽しむかのように、ニヤリと意地の悪い笑みを口角浮かべる。
「なに言ってんだよ。そんなわけあるはずないだろっ。いやらしい言い方すんな、あーやだオヤジくさい」
「ああ、オヤジで結構。俺のスペシャルディナーの締めは歩だと、決めてあるからな。それで、おまえは喰ってほしいのかほしくないのか、どっちなんだ」
「ど、どっちって……、そ、それは、やっぱり」
 見る見る真っ赤になった歩は、全身を強ばらせて小さくなった。羞恥から頭が沸騰しそうだ。
「冗談はさておき、その前に買い出しだな」
「え?」
「最近外食ばかりで、さすがに飽きてきた。たまには家で食うのもいいだろう」
 からかわれただけなのか、と歩は少なからずほっとしたが、それはそれで物足りなさもあったりする。
「途中で、南青山のスーパーに寄っていくから、なんでも好きなものを買え」
 スーパーと軽々しくいうけれど、高槻の口から出た店の名前は、歩も知る輸入食料品の専門店だった。
 外国人の客が多く、どの商品も値が張ることから、高校生の歩にとっては無縁のスーパーマーケットだ。
 高槻と一緒でなければ贅沢もできないとあって、歩はここぞとばかりに遠慮なく、高級食材の名を連ねる。
「あっ、あと俺、アレも食べたい! 七面鳥の丸焼き!クリスマスといえば、やっぱこれだよね〜」
 高槻は小難しい顔で、ターキーか、と考えこんだ。
「メインは、イベリコ豚のロースにしようかと思っていたんだが……」
「イベリコ豚? なにそれ。俺は豚よりも鳥がいいよ」
 だってクリスマスイブイブだしさ、と笑顔で続けるステレオタイプな歩に、高槻は目元を和らげる。
「おまえが食いたいのならそれでいい。ローストターキーならうまい店も知ってるしな。一羽ぐらいなら、なんとかなるだろう」
「そしたら、シャンパンもないとね。シャンメリーじゃない、ちゃんとアルコールが入ってるヤツ」
「なんだ、てめえ未成年のくせして酒を飲むつもりか」
「えー、だって、今夜ぐらいはいいじゃん」
 歩がお願いすれば、高槻はなんでも買ってくれる男だが、社会的なルールに関しては口うるさかった。
「ねえ、ダメ? ちょっとだけ」
 媚びるような上目遣いで横から覗きこむと、高槻はむすっとしながらも、仕方ねえな、とぼやく。
「食前酒ぐらいなら大目に見てやるよ」
「やった!」
 やはりこの男は、どんなときも恋人には甘い。
 それからふたりは南青山に着くまで、車中でずっと今夜のディナーについて大いに盛り上がった。

 

 自宅マンションに入るなり、高槻はスーツの上着を脱ぐとキッチンに立った。大量の買い物袋をテーブルに置き、シャツの両袖をまくり上げる。
 今宵のメインディッシュである、ローストターキーは知人の店から調達できたが、簡単なサラダとパスタはふたりで作ることにしたのだ。
「だけど聖さんならともかく、高槻さんが料理するなんて、なんか変な感じ。似合わないってゆーか」
「失礼なガキだな。カクテルはかなわないが、料理なら聖より俺のほうが何倍もうまい。だてに店を何軒も持ってるわけじゃねえぞ」
 高槻が職業柄グルメなのは知っていたが、料理の腕も立つとは意外だった。
「だって今まで、そんな話聞いたことなかったし、作ってくれることもなかったじゃん」
「そりゃそうだ。せっかくの貴重な時間を無駄にできるか。料理なんかしてたら、おまえとヤる時間がなくなっちまうだろうがよ」
「いや、だから、ヤる時間って……」
 歩はいささか閉口しつつ、買い物袋から取り出した食材を、ひとつひとつ広いテーブルに並べる。
「だったら、今日はどうして一緒に作ろう、なんて気になったんだよ。やっぱ変じゃん」
 過去に観覧車のゴンドラの中でさえ、ヤった男だ。腹ごしらえがすめば、即ベッドインというのがいつものパターン。仲良く並んでシンクに立って料理なんて、なにか企みでもあるのかと疑ってしまう。
「もしかして、明日の約束がボツになって、俺に気を遣ってる? だったらべつに気にすること――」
「そういうわけじゃねえ。いや、まったくそうじゃないこともないが……」
 高槻は珍しく、ばつが悪そうに言い渋った。
「明日は特別な日だろ。だから今夜は、前倒しだ」
「特別な日って?」
「俺が『らぶマート』から、おまえを強奪した」
「高槻さん……」
 懐かしそうな目で見下ろす男を、歩は仰ぎ見た。今でも鮮明に思い出すことができる。
 あの夜、歩がコンビニで働いている最中に、高槻が店に押しかけてきて、店員や客が見つめる中、自分をさらっていったのだ。夢のようだった。とても嬉しかった。
「ちゃんと、覚えててくれたんだ……」
 高槻は、少し照れ臭そうにしながらも、
「忘れるわけないだろうが。俺の記憶力をぼけたジジイと一緒にすんじゃねえよ」
 そう言って、歩の頭をそっと胸に引き寄せる。
「記念日なんてもんはな、俺のガラじゃねえ。だけど、おまえは好きだろ、そういうの。違うか?」
 歩は高槻の広い胸に顔を伏せ、耳をすませていた。 頭上から降ってくる男の低い声と、かすかに感じる確かな鼓動が心地よかった。
 まるで優しい音楽のように、心が癒されていく。
「どうした、黙ってんじゃわかんねえだろ。まさか、俺だけがひとりで勝手に気にして――」
 歩が、くすくすと笑いながら顔を上げると、途端に高槻は眉間にしわを寄せて、なんだ、と声を尖らせる。
「高槻さんも、余裕がなくなることってあるんだね。いいもん見ちゃったな」
 アホか、と高槻は軽く歩の頭に拳を落とした。
「あいて」
「自慢じゃねえがな、俺はビジネスにおいては怖いものなしだ。だが、おまえの前ではただの男に成り下がる、と前に言っただろうがよ」
 胸を張り、恥ずかしげもなく口説き文句を連発する男に、ますます笑いがこみ上げてくる。
「そっか、高槻さん、そんなに俺のこと好きだったんだ」
「あ? 調子に乗んじゃねえぞ」
 好きにほざいてろ、と高槻はまだ含み笑いを続ける歩に、呆れた様子で背を向けた。
 そしてキッチンの引き出しから黒い布を取り出すと、
「これこそ時間の無駄だ」
 その大きな布を、ばさっと一気に広げる。歩は目をぱちつかせて、男の一挙一動を見つめていた。
 高槻は手慣れたしぐさで、足首まで届きそうな黒い布を腰に巻きつけると、後ろできゅっと紐を締めた。
 いわゆるギャルソンエプロンだ。カフェとかでよく見かけるシンプルなデザイン。撥水性なので生地に少し光沢がある。
 そして手短なところからタオルを持ってくると、これも器用な手つきで頭に巻いてぎゅっと固く縛る。
 瞬く間に、ホワイトカラーのレストラン経営者が、厨房で活躍する一流シェフのように変身してしまい、歩は正直なところドキドキした。
 だって、あまりにその姿がかっこよかったから。
 もちろんシェフは、頭にタオルを巻いたりはしないけれど、有名なラーメン屋の店長とかならありえる。いやむしろ、そのほうが高槻には似合っていた。
 腰骨に巻いた長いエプロンは、スマートな下半身のライン際立たせ、どことなくエロティック。
 ミスマッチ感のあるガテン系の白いタオルは、ワイルドな男の色香を増幅させている。
 歩が見惚れるのも無理はない。目の前にいる高槻は、文句のつけどころがないほど男前だったのだから。
 歩は内心で、『うわー、うわー、超かっけえよ〜』と叫びながら、女子高生のように胸を高鳴らせていた。
「ん、なんだ、ぼけっとして」
 準備を整えた高槻が、いかにも不審そうな顔で問う。
「あっ、いや、なな、なんでもない! 俺べつに、高槻さんに見とれてたわけじゃないからっ」
「なんだと?」
 動揺したあまり、自分から事実をバラしてしまい歩はことさらうろたえた。耳まで真っ赤になった歩を、高槻は見て見ぬふりをして、背後の棚に手を伸ばす。
 ただし、振り向きざまに噴き出しそうになったのを、拳で隠していたのはいうまでもない。
 ふたたび歩に向き直った高槻は、いつもの高飛車な態度で、「おまえのはこれだ」と差し出した。
「こういうことは形から入ったほうが、楽しめるだろ」
「あっ、うん、そうだね!」
 自分のエプロンも用意してくれていたことで、歩はすっかりご機嫌になり無邪気に喜んだ。
 さっそく手渡された白い布を広げたが、それは非常に複雑な形状をしていた。全体は真っ白だが、なんだかやたらとヒラヒラしている。それは高槻のギャルソンエプロンとは、似ても似つかない代物だった。
「ちょっと、これって女物のエプロンじゃんか!」
 肩ひものついた、少女趣味な白いエプロン。レースがいたるところについていて、胸当てはよく見ると、大きなハート型をしている。
 これはまさにエプロンというよりも、コスプレ衣装。機能性をまったく無視したメイド服のようだ。
 歩は顔をしかめ、露骨に嫌悪感をあらわにした。
「ふざけんな〜っ。なんで、あんたがソレで、俺がコレなんだよ。冗談じゃねえっつーの!」
 さきほどまで高槻に抱いていた恋心もどこへやら、歩は怒りのあまりエプロンを振り回した。
 それでも高槻は悪びれず、しれっとした様子で宣う。
「文句があるなら聖に言え。俺が使ってないエプロンを譲ってくれと頼んだら『とびっきりのがあるから』と、それを渡されたんだ。俺が悪いわけじゃねえ」
「だからといって、コレを俺に着せようとする、あんたの神経を疑うよ。それとも高槻さんさ、こういう趣味があるわけ 」
 考えただけで、歩はぞっとして鳥肌が立った。
 過去にSMっぽいことはされたが、あれは歩が挑発した結果であって、高槻が好んでいたとは思えない。 事実、今まで何度も体を重ねたけれど、こういったプレイ紛いなことはなかった。
「そう、いきり立つことねえだろうがっ。俺は、それでセックスの相手をしろと言ってるんじゃないぞ。料理を手伝えと言ってるんだ。どこに問題がある」
 そう言われると確かにそうだ。どれほど可愛い形をしていようがエプロンはエプロン。料理をするときに身につけるもの。だけどなんとなく納得がいかない。
「でも、少しは高槻さんだって、裸エプロンとかいいなぁ〜なんて、思ってたりするんじゃないの?」
 すると高槻はしばらく黙考して、
「そりゃ、人間だからな。だったら訊くが、裸エプロンが嫌いな男が、この世にいるとおまえは思うのか」
 顎をかきながら、あっさり白状する。
 歩が反論できなかったのは、同じ男としてその気持ちが、わからなくもなかったからだ。
 裸エプロンは男のロマン。だけどあれは見るものであって、決して自分がやるものではない。ただ今回は裸ではないのだから、妥協するべきなのだろうか。
「わかったよ、もういい。着ればいいんだろ。じゃないといつまでたっても、七面鳥が食えないもん」
「なんだ、ずいぶん物わかりがよくなったじゃねえか」
 高槻は勝ち誇ったような顔で笑った。歩は悔しくもあったが、ここは意地を張らずに折れることにする。
 制服のブレザーを脱ぎ、その上から羽織る。エプロンに腕を通すのを、高槻は真剣な面持ちで眺めていた。
「お望みなら、こんなのもあるぞ」
 高槻が手にしていたのは、メイドエプロンとセットになった白レースのカチューシャだ。
「いらないよ!」
 大声で拒むと、高槻はおかしそうに、くくくと喉を鳴らした。その姿がまた忌々しくて素早く着替える。
「ほら、着たよ。どう、これで満足? どうせさ、男がこんなのつけたって、気持ち悪いだけなんだから」
 エプロンの裾を指先でつまみ上げて、ピラピラと振ってみせる。高槻は両腕を組み、ふむふむ、と頷きながら、鑑定でもするような顔で凝視していた。
「なるほど」
「なにが、なるほど、なんだよ」
「エプロンの威力に驚いてるだけだ」
「はっ?」
「馬子にも衣装だな」
 わけがわからず、きょとんとしている隙をついて、高槻は少し身をかがめる。歩の顎をすくい上げるようにして、突然のキスをしかけてきた。
「ま、待ってよ!」
 決していやなわけじゃなかったが、歩はとっさに顔をそらして高槻の胸を軽く押し返した。
「なんだ、拒むことねえだろ」
「だって……、高槻さんがキスだけで、終わるはずないじゃん。これからパーティーやるんじゃないの?」
「もちろん、やるさ。その前にちょっとだけ、つまみ食いさせろ」
 懲りずに端正な顔を寄せてくる男に、歩はドキッとしながらも、己の欲望を必死で抑えて抵抗する。
「今はいやなの。俺、昼も食べてないし、お腹へってんだからさ。七面鳥の丸焼き、楽しみにしてたのに」
「歩は俺よりも、ローストターキーのほうが大事なのか」
「えっ?」
 似たような台詞を、つい今し方自分が言ったような気がする。高槻は憮然とした態度で続けた。
「はっきり言っておくが、俺はイベリコ豚もローストターキーも、どうだっていんだ。そんなこと、おまえももうわかってるだろ」
 完全に欲情のスイッチが入った高槻は、高級食材に目もくれず、エプロン姿の恋人をロックオンする。
「だ、だけど、高槻さん……」
 じつは満更でもない歩だが、ひとまず一度は遠慮しておかないと。腹が減っているのは事実なのだから。
「だけどじゃねえ。それにおまえ――、いつになったら高槻さんから卒業するんだ? 名前で呼べと、前から言ってるだろうが」
 歩は目を見張ったのち、うつむいて真っ赤になった。もうダメだ。これ以上は我慢できない。背伸びして高槻の首に両腕を回すと、ぎゅっと抱きついた。
「清司さん……、いいよ。俺のこと食べて」
 抱きついた男の体が一瞬硬くなったが、深呼吸でもするような息を吐きながら、甘い言葉を舌に載せた。
「素直な歩が、世界で一番うまい。ベッドへ行くぞ」
 高槻は歩を軽々と横抱きにすると、キッチンを出る。
「一欠片も残さず、きれいに料理してやるからな」
 赤面した顔を見られないよう、高槻にしがみついている歩は、震える小声で告げた。
「……お願いします」
 一年経っても初夜を迎える幼妻のような歩に、 高槻は満足そうに口元に極上の笑みを刻んだのだった。

                                                 




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