辛口恋愛レシピ 番外ショート
2007年12月 無料配布コピー本より

〜幸せのレシピ〜




 おかしい。なんか変だ。
 塔野水生はキッチンの流しの前で調理器具を洗いながら、テーブルに座る住吉翔吾をちらりと盗み見た。翔吾はさきほどから少しも食が進んでいない。
 本日のランチは翔吾の大好きなバケット・サンドイッチ。焼きたてのバケットに具材はシンプルに、ツナとチーズとレタスとサラミを挟んだもの。
 堅焼きパン独特のパリパリとした食感がたまらないと、翔吾は水生が勤めるオープンカフェにも、わざわざ休日に食べに来るほどのお気に入りだ。
 それなのに一口囓っては、バケット・サンドイッチがまるで親の敵でもあるかのように、恨めしそうに睨みつけている。いつまでも口の中でもそもそと慎重に咀嚼して、飲み込むのもいやそうだ。
 ランチタイムが終わるまで休日出勤していた水生は、店で軽く食事をすませていた。ひとりだとなにもしない無精な翔吾のためだけに、遅い昼食を準備してやったのに、ありがたみのない反応にいささか怒りを覚えてくる。
 不味いのか。いや、どう考えてもそれはないだろう。嫌がらせでわざと不味いものを作ることはあっても、意識のないところで失敗するはずがない。
 なにより翔吾は水生の作る料理なら、たとえ不味いものであっても、世界で一番うまいと笑顔でガツガツ食べる男なのだ。「あのな、なにが気に入らないのか知らねぇけど、食いたくなきゃ無理して食わなくていいっ」
 バケットサンドをランチボックスごと取り上げると、途端に翔吾は慌てた。
「なに言ってんだ。食いたくないわけないだろ。せっかくおまえが作ってくれたのに、サイコーにうまいに決まってるじゃないか」
「だったら、どうしてそんなしかめっ面でいやいや食ってんだよ。こっちは気分悪りーだろう」
「それはまあ……、あれだ」
 翔吾は珍しく気まずそうな顔で言葉を濁す。
「あーもう、マジでいらいらするなあ。なんだよ、はっきり言えよ」
「歯だよ、歯」
「はっ?」
 シャレではない。水生は眉根を寄せた険しい顔で続けた。
「まさか、俺があれほど言ったのに、まだ歯医者に行ってなかったのか!」
 二週間程前に治療済みの歯の詰め物が取れてしまい、翔吾は食べ物が噛みづらいと零していた。虫歯がひどくなる前に早めに看てもらえと、世話女房のように口うるさく言っていたのに、どうやらまだ放置していたらしい。
「この数日は痛みもなかったし、年明けてからでいいかと思ったんだ」
「それでこのざまかよ。まったく、だったら我慢して食うことなかったのに」
 痛む歯に堅いフランスパンは酷だろう。
 頬を片手で押さえてしゅんとしている姿は、とても大手音楽会社で働く敏腕プロデューサーには見えない。いや、普段からして威厳はないのだが。
「なんで作る前に言わなかったんだよ。知ってたら、もっと食べやすいものにしたのに――、ってか無駄にしたら勿体ねえだろうっ」
 恋人の体よりも、食材を気遣うような憎まれ口を叩くのは照れ隠しからだ。
「だから、黙って全部食べるつもりだった」
「痛みに耐えながら食われても、こっちは全然嬉しかねえ」
 ぷいっとそっぽを向き、残ったバケットサンドをテーブルから下げる。丁寧にラップして冷蔵庫にしまった。なにも無理強いさせることはない。
「おいおい、もしかして昼食はおあずけか?」
「自業自得だ。それよりも今すぐ歯医者を探して予約を入れろ」
 師走のこの時期、年末になればなるほど病院も混雑するだろう。今年も残りあとわずか。それでなくても虫歯の治療は早ければ早いほどいいに決まってる。
「今日はやめとく。明日にする」
 水生は冷蔵庫から出した鍋を、温めようとしていた手をぴたりと止めた。
「てめえは夕飯も抜きにされたいのかっ」
「まだ決心がつかない。俺はこの世で歯医者がもっとも嫌いなんだ」
「はあ?」
 開いた口が塞がらない。
 制作会議で意見するような真剣さで力説されても、同情の余地はない。むしろ呆れる。なんてだらしない。仕事以外は本当になにもできない男だ。
 卵焼きも焼けず、自転車もやっと乗れるようになって、歯医者も怖がるようでは小学生以下ではないか。
 どうしてこんな男を好きになってしまったのか。自分自身がはがゆい。
「あぁ、そうか。わかった。なら好きにしろ」
「怒ったのか? おまえが不機嫌になることないだろう。先送りしても痛い思いをするのは俺なんだから。それよりも機嫌直して愛妻ランチを返してくれ」
 水生はなにを言われても、それっきり一言も返事をしなかった。
 なにが愛妻ランチだ。そう思うなら自分の体をもっと大事にしろ。
翔吾のことが心配だから腹を立てているのに。そんなこともわからないなんて、本当にバカじゃないだろうか。
 いやなことがあると水生はキッチンで時間を過ごすことが多い。独自のレシピを研究したり、シンクを掃除したりしていると、心が落ち着いてくるのだ。
 流しの前で自分だけの世界に没頭している水生を、翔吾はしばらくのあいだ無言でじっと見つめていた。憂いを帯びた静かな表情。か弱く愛しい生き物ものでも見守るような、優しい瞳。
 水生は見ないようにしていたが、熱い視線は痛いぐらいに感じていた。徐々に
作業に集中できなくなる。結局、いつも最後は水生が根負けしてしまうのだ。
 背後に近づく男の気配に思わず体を硬くする。
「それ、俺のか」
 耳元で囁くように尋ねると同時に、腰に両手が回ってくる。
 まずい。捕まった。
「だ、誰があんたのだと言った。ふざけんなっ。これは俺が夜、バケットと一緒に食べるつもりで煮込んでんだよ」
「ふうん」
 水生の肩に顎をのせて、翔吾は手元の鍋を覗きこんでいる。IHでとろとろに煮込んでいるのは、昨夜の残り物。赤ワインを贅沢に使ったビーフシチューだ。
 昨日はまだ歯痛が酷くなかったのか、それとも数時間煮込んで柔らかくなっていたからか、翔吾は二杯も平らげた。
 一晩経ったシチューに具はほとんど残ってなくて、ルーだけだ。とろっとした半熟卵のオムライスにソースとしてかければ、文句なしのメインディッシュ。
 虫歯に悩まされているどうしようもない男でも、笑顔で食べられるだろう。
「嘘をつくな。ほんとは俺のだろ?」
 そうだよなと、抱きついたまましつこく確認する。首筋にかかる吐息に背筋はぞくぞくし、密着した身体がいやが上にも劣情を煽る。背中だけが温かい。
「俺は水生の作るもの以外、食わないと決めたんだ。おまえが料理してくれなくなったら、俺は餓死してしまう。それでもいいのか」
「うっせえ。勝手に死ねっ」
「心にもないこと言うなよ。俺が死んだらスケベなこともできなくなるぞ」
 背後から下半身を擦りつけられて、腰が浮き上がりそうになった。
 ムカつく、ムカつく、ムカつく。でもなにも言い返せない。赤面している顔を見られたくなくて、水生はぎゅっと目をつぶって俯くしかほかない。
「なあ、水生。おまえがなにも作ってくれないなら、手っ取り早く目の前にあるこれを食うからな。それでもいいんだな」
 さらにぐりぐりと尻に硬いものを押しつけられ、水生はたまらず降参した。
「くっそぉ〜、この野獣がっ! うまい餌が食いたきゃ、おとなしく待ってろ!」
 眉尻をつり上げて振り返り、男の鼻先に木べらを突きつける。一瞬、きょとんとした翔吾だったが、肩を揺らしてくくくと笑うと、
「とりあえずこれで我慢しとく」
 そう言いながら、木べらについた赤ワイン色のシチューを、ぺろりと舐めた。
「みっともない真似するなよ。意地汚いやつ――」
 最後まで言葉が続かなかったのは、シチューを舐めたその舌で、自分の口まで舐められてしまったからだ。口角を突つきあっという間に口腔に忍び入る。
「…んっ」
 唇が触れた途端、水生は無意識に薄く口を開けていた。抵抗することなく男の舌を受け入れキスに応える。お互いの舌を絡めて熱を求め合う。
 深い口づけを交わしながらいつの間にか正面に向かされていた。長いとも短いとも感じられるキスのあと、翔吾の胸の中に強く抱きしめられる。
 ふたりともしばし無言でキスの余韻に浸っていると、翔吾がぼそっと告げた。
「不思議だな」
「なにが」
 広い胸板に身体を預け、水生は夢見心地で酔っていた。悪くない気分だ。
「さっきまで腹は減ってたし、歯も痛くて仕方なかったのに、おまえとキスしたら全部吹っ飛んだぞ」
「なんだそれ」
 思わずぷっと小さく吹き出す。バカな男だけれど、やっぱり愛しい。
「水生の舌は、なによりも甘くてとろけるからな。どんな最高級の和牛タンでもかなわないだろうよ」
「はっ?」
「ビーフシチューもいいが、次はタンシチューもうまそうだ」
「うわーっ。それ以上言うなっ!」
 ぞわぞわっと鳥肌まで立ってしまった。あまりに色気のない生々しい表現に、水生は翔吾の胸を突き放し、頭を抱えて床にしゃがみこむ。
「おい、どうしたんだ急に?」
「て、てめぇのせいで想像したくねえもん、想像しちまったんだよ!」
 前言撤回。この男、やはり料理レシピの『さしすせそ』どころか、恋愛のレシピさえわからないアホだ。普通、恋人の舌を牛タンに例えるだろうか。
 けれど、それでも幸せだ、と感じてしまう自分も同類なのだろう。 
 水生は床にしゃがみこんで、ひとりでは決して作れない幸せを噛みしめた。


――END――




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