お仕事ください! 総集編 「アンダーグラウンド」番外ショート

〜その後のアンダーグラウンド〜




 上野公園の桜が散り、花見客の姿もすっかり影を潜めたころ、胃潰瘍で入院していた藤咲が退院した。
「ただいま戻りました〜。長らくご迷惑をおかけしてすみません。今日からまた、よろしくお願いします!」
 事務所に出社した藤咲がぺこりと頭を下げると、星野と中田は「いやったあぁ!」と大仰に万歳した。
「慎一さん、退院おめでとうございます! これで俺らにも、やっと平和な日々が訪れるっすよ〜」
「だなだな、若頭のケツキックからもおさらばでぇ!」
 藤咲が不在のあいだ、黒川の憂さ晴らしの標的となっていた元舎弟たちにとっては、喜びもひとしおだ。
「あの、たぶんそんなことだろうと思って。これ、つまらないものですが、お詫びの芋ようかんです」
 差し出された菓子折りに、ふたりは目が釘づけになる。
「うわっ、大虎屋のようかんだ。これ、超レアっすよ」
「なんでえ、ボウズのくせして生意気な。よし、アキ坊、芋ようかんさまを台所までお運びするだぁ!」
「了解っす!」
 菓子折りを頭の上に持ち上げ、ふたりは御輿を担ぐかのようにして、えっほえっほと奥の流しへ向かっていく。
 異様な盛り上がりを見せている男たちとは裏腹に、応接テーブルの上に足を投げ出した黒川は、いつもと変わらず憮然とした態度で競馬新聞を広げていた。
 新聞に隠れてその表情は読めない。パラパラと乾いた紙をめくる音が止まったそのとき――。
「慎一」
 地を這うような、ドスのきいた声が響き渡った。
 中田たちは青ざめて、芋ようかんを高く上げたまま銅像のように固まったが、藤咲はふにゃりと頬を緩めた。
「なんですか、黒川さん」
「てめえ、俺さまに一言の挨拶もなしかよ。そんなに雑魚どもが可愛いか」
「あっ、いえ、競馬検討の邪魔しちゃ悪いと思って……」
 気遣いはあったものの、しばらくぶりに会う黒川を前に、嬉しすぎてどう接すればいいのか戸惑っていたのだ。
 テーブルに新聞を放り投げて、ソファから立ち上がった黒川は、冷ややかな目で藤咲を睥睨した。
「てめえ、どの面下げてのこのこ帰ってきやがった。てめえがいないあいだ、こっちは地獄を見たんだぞ」
「えっ、地獄……?」
 なんのことだろうかと、きょとんとして小首を傾げる。
「観光スポットでも行ってきたんですか」
「……」
 黒川は恨めしそうな顔で唇を引き結び、黙りを決め込んだまま答える気はないらしい。横目でちらりと中田たちに探りを入れると、星野が言いにくそうに口を開いた。
「それが、こないだ上野に花見に行ったら――」
「若頭が火を噴いてずぶぬれだい」
「花見で……火?」
「てめえらは余計なことを言うんじゃねえ! あの衝撃は――地獄玉に当たったモンにしかわからねえ」
 物騒な言葉に藤咲はぎょっとした。
「じ……地獄玉って、まさか黒川さん、どこか撃たれたんですか!? だっ、誰に? もしかして大輔さんですか!?」
「まあ、大輔には会ったが――」
「な……なんてひどいことを! まだ黒川さんを逆恨みしてるんですね。それで撃たれた傷は大丈夫なんですか?」
「いや、だからな」
「ホッチキスで止めたとか言わないでしょうね!? 病院に行かないとだめです! 傷を見せてください!」
 心配のあまり取り乱した藤咲は、黒川の上着を開いて傷跡を調べようとしたが、突然、胸に抱きしめられた。
「……あっ」
「いいから、落ち着け」
 静かな声音で諭されて、男の腕の中で身を硬くする。
「安心しろ。誰にも撃たれてねえ」
 どうやら、また自分の勝手な早とちりだったようだ。ほっとした途端、緊張が解けて体から力が抜けた。
「……そうですよね、そんな簡単に黒川さんがヤられたりしないですよね。だって不死身ですから!」
 黒川は無言のまま、そうだと答えるかのように、さらに腕に力を込める。いっこうに藤咲を離す気配はない。
 黒川の逞しい胸に抱かれて、徐々に鼓動が速まってきた。喉の奥から熱いものが込み上げて自然と涙が滲んでくる。
「……黒川さん」
 耳元で聞こえる男の息づかい。語らずとも伝わる想い。
 黒川の『離したくない』という熱い気持ちが、全身から伝わってくる。これもまた自分の都合のいい解釈だろうか。
 一度も見舞いには来てくれず、優しい言葉をかけられることも少ないが、それでも藤咲はこの熱だけで充分だった。
「病院のベッドで、黒川さんの夢を見ました。夢の中でも僕は尻を蹴られたけど、ちっとも痛くなくて……」
 むしろ夢から覚めたときの喪失感のほうが、ひどく藤咲を苦しめた。黒川に会いたくてたまらなかった。
 恋こがれたこの男が幻想でないことを確かめたくて、藤咲は黒川の背中に腕を回して強く抱きついた。
「すごい……ホンモノの黒川さんだ」
「バカ野郎」
 熱い抱擁をかわす男たちの目を盗みながら、中田と星野は芋ようかんの包装紙をそっと破ろうとしていた。
 目の前の男しか見えていない藤咲は、周囲のことなどかまわず、甘えるようにして黒川の胸板に頬をすりつける。
「てめえ、鼻水つけてんじゃねえぞ」
「つけてません。そう思うなら、突き飛ばしてください」
「うっせえ、黙ってろ」
 よく――って……たな。
 耳元でかすかに聞こえた呟き。つけ足すように鼓膜を揺さぶった低音は、小さすぎて聞き取れなかったけれど。
 ――よく帰ぇってきたな。
 藤咲にはそう聞こえた。
「……はい」
 うなずきながら笑った頬に、涙が一筋こぼれ落ちる。甘い余韻に浸るのも束の間、やや強引に体を引き離された。
 黒川はばつが悪そうな顔で、藤咲の髪の毛をわしゃわしゃとかき荒らすと、「いつ見てもマヌケな面だな」と言い捨てて、勢いよく背後を振り返った。
「おい、雑魚ども、なにしてやがる」
 今まさに蓋を開けようとしているふたりを、獲物を狙う野獣のような鋭い目で睨みつける。その直後、中田と星野は黒川から強力なケツキックを連続して見舞われた。
 加減なしの尻蹴りに、「ひいっ!」と飛び上がる中田から、黒川は容赦なく菓子箱を奪い取り、藤咲に手渡した。
「伝票の版を組むから、終わったら茶をいれろ」
 そう言いながら背を向けて、作業所のドアを開ける。
「――あっ、はい!」
 端物の組版など今は中田の仕事なのに、黒川は作業場へと入ってしまう。どうやら体裁が悪くなったらしい。
「俺らの芋ようかん……」
 自分たちの口に入るかどうかわからない菓子箱を、中田と星野は未練がましく見ている。藤咲が「まだおあずけですよ」と笑顔で言い聞かせると、ふたりはがっくりと肩を落とした。思わず吹き出しそうになるのを堪える。
「黒川さんのお仕事が終わったら、熱いお茶をいれてみんなで食べましょう。それまでの辛抱ですから」
 とりあえず冷蔵庫にしまっておこうと扉を開けると、
「んっ、あれ? これは――」
 冷蔵庫の棚にぎっしりと大量のプリンがつまっていた。
「どうしてこんなに……」
 焼きプリンやプッチンプリン。パフェっぽいものから、超特大プリンと、さまざまな種類のプリンで中が埋め尽くされている。菓子箱を入れるスペースさえない。
「このプリンどうしたんですか?」
「あー、それ、若頭が毎日どこかで買ってくるんっすよ」
「黒川さんが?」
 星野の意外な返答に、藤咲は目をしばたたいた。
「そのわりには自分で一個も食べなくて、溜まるいっぽうすよ。賞味期限がヤバいのあるからこっそり食べようとしたら、そりゃもう〜、激怒で」
「おいらはそれでも食ったけどな!」
 誇らしげに自慢する中田だが、よく見ると鼻の頭に絆創膏が貼られている。正拳突きを決められたのだろう。
 たしかに、外見に似合わず黒川は甘いものが好きだが、食べもしないプリンを大量買いする意図がわからない。
「花見に行った翌日からずっと買ってんすよ。地獄玉に当たった反動っすかねぇ。そういえばプリンを買ってきては、慎一さんのパネルを意味ありげな顔で見てたすね」
「パネル?」
「あれっすよ」
 星野が指差したのは、応接セットの傍らに置かれた、藤咲の等身大パネルだった。名刺を手にしたとぼけた顔には、黒のマジックで髭が落書きされている。
「ちょっと……、な、なんですか、あれ」
「慎一さんがいないあいだに、いろいろあったんすよ〜」
「だなぁ、アキ坊」
 ふたりは顔を見合わせて、互いに大きくうなずき合う。
 まったく事情が飲み込めない藤咲ではあるが、入院しているあいだに、想像もつかないことが起きたのだろう。
 それにしても、あのパネルとプリンの関係性は?
 まさかとは思うが――。
 黒川は自分のために、大量のプリンを買い置きしてくれたのだろうか。留守録で夕飯のプリンのことを嬉しそうに話したから。喜ばせようとしてこんなにたくさん――。
「……黒川さん」
 胸の奥に甘く温かいものが広がっていくのを感じた。  我知らず、笑いがこぼれる。
 おそらく本人に尋ねれば、『てめえらに見せつけて食うために、わざわざ取っておいたんだ』などと、お決まりの悪態をつくに違いない。それでもいい。乱暴で不器用だけれど、とても優しい男。
 いつもと変わらない平凡な日常こそが一番の特効薬。冷蔵庫の中にプリンが入っている、という些細な楽しみ。
 それだけで藤咲は幸せだった。


――END――




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